ミーティング〜わたしの中の日本的なるもの〜

今日は6月の展覧会のミーティング。
京都芸術センターにam10:00集合。
コーディネーターのYさん、企画者で作家のHさん、作家のPのHくんNくん、Tさん、私。
私たちは毎月集まって、各自の作品世界について発表&ディスカッションをし、研究会をしている。
今日はPのHくんの回。「極楽模型」
あっという間にお昼休憩。
前田コーヒーにてランチ。
その後、今日はついに具体的な作品プランのミーティング。
それぞれが展示プランをプレゼンする。
2人まで行ったところで、
私提案の、展覧会期間に連動開催するライブイベントの打ち合わせに
coccon烏丸のshin-biへ移動。
ディレクターのT氏と他のメンバーを顔合わせ。
お互いのコンセプトを確認し合い、関連企画という形で同時期に開催が本決定。(実は私が一番楽しみです。)
その後、そのままcoccon烏丸のカフェで展示プランミーティング続行。
残り2人がプランを提示する。
個々の作品や全体のテーマとの関係性、「日本的なるもの」について、作品のあり方について、それぞれに捉え方や意見があり、話し合う。
またしてもあっという間に時間は過ぎ、終わったのは夜でした...。

日本的なるものとは何か、ルーツを古典や伝統の中に見出す人、近代以前の日本にはルーツを見出せない人、それについて考えさせることをねらいとする人・・・。
作家として何を見せるべきかという意識の高い作家同士だからこそ成り立つ話ですが、このディスカッション自体がこの展覧会の意義とも言える。


その夜、話の続きで、私がメンバーとのやり取りで送ったメールをあげておきます。

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時間足らずで、昨日説明が足りなかった私の今回の作品に対する考え、もろもろまとめて書いてみます。

○「roots/日本的なるもの」に対する私の作品・考えについて。つれづれ。

私は作品に「日本的なものを取り込もうとしている」というよりも、「もともと自分のDNAの中にある日本的なもの」を自覚的に発言・表現していくといった感じです。
そして、現在の自分の生まれ育ち生活している状況を含めて、それを表現すること。
それは、日本の社会論にもつながる事柄を端的に表すことになると思います。

ほとんど西洋的な教育や生活様式が主流の現代社会で育った自分でありながら、私の中にある感覚に、現在おざなりにされている古典の美術品や思想の中に共通するものがあることを確実に感じる。
いくら西洋社会と全く同じ服を着て生活様式をして美術の技法や歴史や思想を学んでそれが血肉となっていても、全く学校で学えられることの無かった近代以前の日本の伝統文化の中にも自分のルーツがある事を確実に感じる。
明治以降の日本人がおざなりにしてきた伝統を、現代の西洋式の文化様式の中で新しくとらえなおし、自覚し、それを伝えること、それは、私たちの世代がするべき仕事だと私は思っています。
私達の世代は、生まれた時から西洋式の文化は確立していたわけで、私の中には西洋に対するコンプレックスは全くありません。むしろ、逆に西洋的なものはすでにありふれてあるもので、これまで西洋に追いつくためにおざなりにされてきた古典の日本文化に新鮮味を感じます。
例えば、私の母は子供の頃から琴を弾いていて家の屋根裏には大きな琴がありますが、私が子供の頃に習わされたのはピアノで、琴は全く弾けません。親の世代は団塊の世代で戦後に生まれ欧米に追いつけ追いこせで社会を形成してきたわけで、娘には琴なんかじゃなくてテニスやピアノやバイオリンを習わせるというのがステイタスであったわけです。
私にとっては日本の楽器である琴は未知の文化であり、これと同じようなことが他の事でも数多くあると思います。
日本の伝統文化を見るときの私たちは異文化を見るような感覚です。
このことはとてもおかしなことだと思いますが、あまりそれを自覚して言う人はいません。
例えば、日本人で美術大学を出ていてポロックは知ってるけど竹内栖鳳は知らないという人は多いと思いますが、フランス人が美大でポロックは教わるけどコローは習わないなんてありえないですよね。昨日話に出てきた宇治平等院や山越阿弥陀図、菩薩来迎図は日本の国宝ですが、それも美術大学ですら習いません。日本には近代化のねじれが確かにあります。
しかし、この無感覚さもある意味、日本人の特性の1つと言えます。このようなスタンスで違和感無く異文化を取り入れてしまうことは古来日本人の特質でもあります。

日本画がリアリティが無いのは価値観が古いため現代社会とあわなくなってきているからだと言われていますが、私は、それは要するに西洋文化がすでに自らの一部と成り、西洋的な表現や思想に対抗する必要がなくなったからだと思っています。そのため日本画という価値観の存在理由がなくなってきているということではないかと思います。
日本画は、発表形式、表現方法、自己表現のあり方などを近代のヨーロッパのサロンに借りています。それでいながら素材と価値観は伝統的なものに限定して描く。日本人にも西洋と同じ強さで独自の価値観があるんだという事をやろうとしたわけです。
私はその在り方に、もはやリアリティも可能性も見出せない。
また、日本人でありながら西洋の美術史のみを学び、西洋の伝統的な技法を使って描くという事にも、同じくリアリティも可能性も感じられません。
日本画でも日本人の洋画でもない、西洋の美術史も東洋の美術史も自分の文化として踏まえた新しいあり方で表現する事を考えています。
それが私にとっての現代美術であり、今の作品です。
私は、自らのルーツである古典文化を異邦人の目で見直し、現代の言葉で語り、豊かな形に引き寄せる。そういう事をしたいと思っています。
そしてそれは「日本画」がやろうとした対洋画な西洋コンプレックス的な構図ではなく、西洋の文化もすでに自己の文化として取り込んだ今の日本のあり方で融合させること。
社会的に働きかける力を持つ形で具体化するという事です。
例えば、ビニールやラインストーンやキッチュなイメージを使ったりする事は、高尚なもの・日常とかけ離れたものになっている古典と共通する私の表現形態や思想を、日常にあるもの・ジャンクなもので表すことにより、それらの距離を同一にして日常に引きおろすことでもあります。

私は自分にとって必然性のある生殖・増殖の妄想や自然の形を描きます。
現代社会に生きる私の屈折したそれは古代の人から見れば異形の形態であるかもしれません。
しかし、私が紡ぎだすのはなぜ自然の形態なのか?いつも美しい自然と同一化して暮らしてきた日本人の性質を私は自分の中にも感じています。
そして私の中にある、対象物を二次元におきかえる捕らえ方、線の意識、造型感覚、色彩感覚、空間感覚は、
大和絵、狩野派などの古典絵画から、近代の京都四条円山派へ、そこから京都の日本画画壇が近代化しつつも大切に伝えてきた、京都ならではの感性でもあります。
私は、日本画の伝統を否定して筑波や東京でコンテンポラリーな抽象絵画を描いていた頃、自己のオリジナリティを探すうちに自分の中にあるどうしようもないその京風の質・感覚に気づかされました。そして、それは、それ以前の仏教美術や東洋思想ともつながっていることを意識し始めました。
また、アメリカに行った頃、現代美術史は世界共通言語であり、日本の現代美術作家も欧米の前衛作家も、次の表現は何かという同じ問題意識を持っているのを感じましたが、そこで私は、アメリカ人の若い作家と同じ地点に立っていながら、私には彼らとは違う文化のルーツももっているという事を財産に感じました。

このような形で、以前から私は、「ルーツ」と「現在の自分のあり方」の融合を作品の1つの構造としており、今回の展覧会は、まさに自分がこれまで考えてきた事をはっきりとしたテーマに沿って発言するチャンスでもあります。
昨年行った「日本画ジャック」は、日本美術の近代化のひずみや混沌をそのまま見せるという形で、問題意識のある人や全く無い人の全てを同一線上に並べて問題提起を行ったのですが、
今回の「√roots〜私の中の日本的なるもの〜」では、私は、意思を持った作家が集まって日本の今の表現として展覧会として答えを出すことが出来るのではないか、という期待と意識で挑んでいます。そうなってほしいし、もしそういう展覧会になったならば、外に持って行ってもきっと非常に強いものになると思います。

私の考えはこのような感じです。
このようなところが昨日説明不足だったところかな...。
私がなぜ有機形態を描くかというところについても、もっと説明が必要かと思います。また今度書きます。

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「日本」と「ルーツ」という言葉を並べたときに素直にイコールで結べないその「ねじれ」は、注目するべき点なのではないか。



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